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COCET通信        第10号 (04.8.4)

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COCET通信        第10号 (04.8.4)
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目次

 巻頭言 「今号のテーマ:『私の研究と高専の英語教育』について」
                       和歌山工業高専  森岡 隆
 特集 私の研究と高専の英語教育

    「第二言語習得研究と英語教育研究のはざまで」
                         詫間電波高専 森 和憲
    「『教育』する使命とは?―『研究』は『教育』の宝庫―」
                        大島商船高専  石田依子
    「英文学研究…この非実用的なるもの」
                        和歌山工業高専 森川 寿
    「私の研究活動と高専の教育」
                        東京工業高専  岩崎 健

    「青い鳥は高専にいたようだ」
                   和歌山大学 江利川 春雄(前鈴鹿高専)
    「まず隗より初めよ」
                  椙山女学園大学 長澤唯史(前豊田高専)

 高専紹介 「長野高専英語科スタッフ」   
                       長野工業高専  小澤志朗

 平成16年度コセット研究大会の連絡

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  巻頭言   今号のテーマ:「私の研究と高専の英語教育」について

                       和歌山工業高専  森岡 隆

 専攻科設置、独立行政法人化、JABEEの審査──と、高等専門学校の置かれて
いる状況は、以前にもまして厳しいものです。教育に関してはもちろんのこと、
近頃では研究面に対する要求や締め付けもきつくなってきました。たとえば、一
校あたり、一学科あたりの博士号取得教員の割合を上げるため、研究面でのんび
りしておられる教員や、学位を取得しておらない教員に対して、管理職が厳しい
態度で臨んでいる高専もあるように伺っています。そのうえどうやらおおむねど
の高専でも専門学科の教員の底上げはほぼ完了し、これからは一般科目のそれも
基幹教科とされる数学、英語、国語あたりへと、その動きを移しつつあるようで
す。
 一方、大学院の教育が以前にも増して充実しつつある現在、博士号を取得して
英語教員になる方や、採用の際に博士号取得を前提とする大学や高専が増えてき
ているのも、まぎれもない事実です。けれども教科、校務、寮、(中学高校での
それらほどは盛んではないものの)クラブ顧問などの仕事で一日が終わってしま
う高専の教員が、研究に時間を割けるのは、週末と長期休暇の間だけかも知れま
せん。とりわけ文学研究に携わっている教員は──少なくとも私は──ときおり
曲学阿世の境地に陥ります。
 そこで編集を任された今回、個人的にも関心を持っていましたこの「研究」面
をテーマに取り上げ、ご自分の研究と高専の英語教育をテーマに、六名の方に
エッセイを認めて頂きました。内訳は高専に勤めて二-三年の方、もう充分にベ
テランの方、そして高専から大学に移られた方、それぞれおふたりずつです。そ
のどれにも自信と謙虚さがあふれており、原稿を集める作業はなかなか楽しいも
のでした。また内容的な統一を図るためにこれらの個性的な文章に手を入れるよ
うなことは、今回は最小限に留めています。これらのエッセイが、読者の先生方
が研究職について、教職について、今一度思いを馳せて下さるきっかけになりま
したら、編集担当者としてこれほど嬉しいことはありません。
 じつは私自身、勤務校の研究・教育の両面でのサポート体制の下で(感謝!)、
博士号取得を目指して、昨年度から関西のとある大学院の博士課程に籍を置いて
います。しかし教員という日常とは離れ難く、普段はどうしても補習や教材研究
に時間を割いてしまいがちです。研究職に就いたのだと大いに自覚して高専に就
職した頃の気持ちをいつまでも忘れないでおくためにも、また研究面と教育面を
車の両輪のようにバランスをとりつつ充実させて暮らしていくためにも、今回の
テーマは自分自身にとっても意義深いものとなりそうです。

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特集 私の研究と高専の英語教育
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     第二言語習得研究と英語教育研究のはざまで

                       詫間電波高専 森 和憲

 「森君、英語教育は研究ではない、教育だよ。英語教育に貢献したいのだった
ら、論文を書かずに教科書を作ったほうがよっぽど為になる。」と大学時代の兄
弟子は、私にこう言った。そして「第二言語習得研究は違う。研究だ。科学なん
だ。」と彼は続けた。高専教員になったばかりで、これから英語教育について勉
強しようと考えていた私は、「お前は研究者ではない。」と言われているような
気がして、妙な劣等感を覚えた。
 学生時代、私はイギリスにある大学の応用言語学科に所属していて、日本語話
者による英語の過去形の習得について研究していた。それは生成文法をベースに、
何故日本人にとって過去形の習得は難しいのかを考えるものだった。この方面の
研究はなかなか盛んで、今でも多くの研究者が取り組んでいるようだが、高専教
員として教壇に立った時、私はそれまでの研究を捨てることを決心した。なぜな
ら、研究に必要な学習者のデータを集めることが、高専では難しいと思ったから
だ。日本人の場合、過去形を習得するには相当の時間がかかり、習得の過程を検
証するには中級(intermediate)から上級(advanced)の学習者データが必要である。
しかし高専にはなかなか中級以上の学習者は少ない。また、大学生のデータを採
取しようとしても、日本の大学に根の無い私のような流れ者には、なかなかデー
タ収集を依頼するつてもなかった。そのような事情もあり、私は第二言語習得研
究を断念し、英語教育学へ転向することを決心したのだが、先の兄弟子の言葉は
そんな折に投げかけられたものだった。私は出鼻をくじかれたような格好になった。
 しかし、彼の言うように、英語教育は研究できないのだろうか。論文を書いて
も意味が無いのであろうか。いや、そうではない。あのときから二年が経ち、微
力ながらも英語教育とその研究に携わってきて、そう思えるようになった。
 確かに英語教育研究には主観が入りやすい面もあり、理系研究者から見れば客
観性を欠く部分もあるかもしれない。しかし、昨今の英語教育研究は統計的に処
理されることが多く、客観性は充分に保たれている。また、私の兄弟子は、英語
教育のためには、論文を書くよりも教材を作ったほうが良いと言い放ったが、教
材作成には教材評価や教科方法論、学習効果の測定などが必要で、これらは立派
な「研究」である。そして後進のために、その研究成果を論文に残すことは必要
であろう。
 高専教員になって三年目に入るが、その間に、私は幸運にも同僚の平岡先生や、
岐阜高専の亀山先生の科研プロジェクトに参加する機会に恵まれた。そこでは高
専に特化した教材作りが進んでいる。そのプロジェクトの一環として、昨年、平
岡先生と共同で、TACMASというコーパスを作成したが、このコーパス作成に携
わることにより、語彙習得に関心が向くようになった。将来的には語彙習得研究
で博士課程に挑戦しようとも考えている。このように一つの研究が更なる研究を
生み、その研究の連鎖により英語教育研究は進歩していくと思う。
 ただ、今はプロジェクトを全うすることだけを考えている。そして、その成果
を論文に残すことで、更なる研究の糧となればいい。そうすることで、私は研究
者として、自らの存在意義を示すことができるのではないだろうか。そして完成
した教材を兄弟子に見せ、私はこう言うつもりだ。「先輩、僕、こんなん作りま
した。で、先輩は?」と。




    「教育」する使命とは?―「研究」は「教育」の宝庫―

                    大島商船高専 石田依子

 私がCOCETに初めて参加したのは、昨年8月23日・24日に京都で開催された
第7回大会でした。今まで歴史や文学などの分野で大学の教員を中心に構成され
ている学会にしか関わったことがなかった私にとって、高等専門学校の英語教育
関係の学会であるCOCETは新鮮でもあり、戸惑いも多いものでしたが、「初参
加」であるにもかかわらず、発表の機会を与えてくださったことは私にとって、
重ねて「新たな経験」となりました。
 私は昨年4月に大島商船高等専門学校に赴任いたしました。それまでは関西の
諸大学で非常勤講師として勤務していました。授業をしていく中で、大学と高専
が異なると私が感じたことは、高専の一般科目の「英語」では大学の外国語科目
としての「英語」の授業以上に、私自身の専門分野が「関わりがない」というこ
とでした。私は「アメリカ黒人研究」を自己のライフワークとしています。専門
分野が「英語教育」ではないということは、高専で職をもつ私にとってはある意
味では「不幸」なことかもしれません。それほど、高専では「文科系」の学問が
虐げられている(?!)ような気がしたのです(笑)。しかし、高専が理科系の
学校であるということを考えるなら、これも当然のことかもしれませんし、その
ような中で高専で英語を担当する教官がどうしても英語教育を専門とする研究者
になってしまうのも頷けることでしょう。そして、このことは私がCOCETに初め
て参加し、発表させていただいた時にも感じられたことでした。英語教育の分野
に直接関係がないことを発表したのは、私一人ではありませんでしたが、その中
でも「アメリカ史」について発表した私のテーマは特にCOCETという学会の趣意
ともっともかけ離れた発表であるように思えました。正直なところ,場違いのよ
うな気がして、申し訳なくさえ思いました。
 あれから一年が経ち、大島商船に赴任して二年目を迎えました。この原稿執筆
の依頼を頂いたことを機会に、今、新たに自分自身の「教育」と「研究」に対す
る姿勢を見つめなおしてみました。ですが,答えはやはり一つしかありません。
私を囲む周りの状況がどうであれ、私は私であるということです。私のライフ
ワークはやはり「黒人研究」しかありません。そして、たとえ高専での「英語」
の授業の中に私の研究分野が入り込む余地がないように見えたとしても、それを
打ち破るのが私の使命であると思いました。語学以上に,私は学生たちに大切な
ことを伝えたい。私が黒人研究から常に実感していること,「人間が真に平等で
あることの大切さ」「自分と異なる存在を尊重すること」など,彼らがこれから
エンジニアとして成長していく中で,いいえ,人間として生きていく中でもっと
も根本となることを伝えられなくして私が「黒人研究」を行っていく意義はない
と感じたのです。
 本年度は「公開講座」にも挑戦させていただきましたが、題材は「ジャズ」や
「映画から学ぶ黒人史」です。ちょっと、欲張りかもしれませんが、本校の学生
だけでなく、地域の人々の間にも黒人文化を広め、その素晴らしさを理解してい
ただきたいと思っています。高専での私にとっての「研究」とは、「業績」のた
めの無味乾燥なものでなく、「教育」や「地域協力」と有機的なつながりが持て
るような、潤いのあるものでありたいと思っています。勿論,COCETでもたとえ
場違いであってもめげずに自分の研究を発表していきます! 広い意味で、それ
が教育とつながっていく限りは。




     英文学研究…この非実用的なるもの

                    和歌山工業高専  森川 寿

 高専の英語教員が求められることって何でしょう。一概に教育と研究と言わ
れるが、私の場合は、9割方(時期によってはそれ以上?)は前者に時間を取
られているだろう。教育にも実際に学生を教えることと、いわゆる校務という
学校運営に関わることとがあって、この校務というのが厄介で、数年前まで教
務主事補、現在は一般科目主任をやっていると言えば想像していただけるだろ
うが、様々な書類作りの仕事や、事務連絡が、朝登校してメールを開ける度に、
まず必ず待ってくれている。主任をやっていて良い点は、出張伺いや年休届の
印鑑を他人にもらいに行かずに済むこと位だろうか。
 次に教員の“本分”たる授業。毎日の授業をきちんとやること、当たり前の
ことだがこれが難しい。私語、携帯、漫画、そして居眠りといった障害を乗り
越えて、学生を英語学習に振り向け、90分持たせるのは教師たるもの皆苦労す
るところだろう。教科書とチョークだけ持って行って和訳をしていればすむと
いう時代ははるか昔のことである。テープ(最近ではCD)を聞かせ、予習プリ
ントに書き込ませ、英問英答などで内容を確認し、音読に時間を割き、重要文
を暗唱させ、ペア・ワークで発話させるetc。1つの活動は15分が限度と考え
ているので、手を変え品を変え、学生を飽きさせずに、目標表現を定着させる
には、プリントや小テスト作り、提出物のチェックにいくら時間があっても足
りないくらいである。
 そこへやって来たTOEICという数値目標。企業の求める英語力が数字で表さ
れている以上、少しでも学生の力をそこに近づけなければならないのだが、TO
EICで必要なのは、英語の知識ではなく感覚と持続力であろう。3単現のsなど
は中学生でも知っている。しかしそれを思い出すのに5秒も10秒もかかってい
てはTOEIC100問を75分で終われないし、もちろん実際のコミュニケーション
では役に立たない。これからの英語教育に求められるのは、知識の伝達ではな
く、基本的文法事項の感覚への刷込みだと考えているが、いかんせん授業だけ
では時間が足りない。日頃の自学自習を促すよう、学生の自覚を如何に引き出
すか、諸兄のお知恵をお借りしたい。
 では、英文学研究と日々の英語授業――あるいはTOEIC指導――は関係ある
のか(やっと題名に関係してきたが、まあ、日頃使っている時間が1割なのだ
からこんなものだろう)。一言で言えば、関係はない。私はバーナード・ショー
などの英国近代劇を看板にしているが、高専の学生が必要な工業系の英語と、
ちょっとした言い回しの中に様々な感情のこもった芝居の台詞との接点は見つ
けにくい。第一、100年前の英語は学生には取っ付きにくく、時代背景を説明
するだけでも大変である。最近定年で辞められたG.B.ショーを専門とされる大
学教授は、PygmalionとSt. Joanを一年交代で講読に用いておられたそうだが、
私には別世界の話に聞こえる。
 とすれば、なぜ私は文学研究を続けているのか。ひとえに自分の精神衛生の
ためであろう。G.B.ショーという人は、生涯に53編の戯曲を書いたが、フェイ
ビアン協会を代表する経済学者でもあり、劇作家で名を成す前には評論家とし
て、19世紀末の美術、音楽、演劇に辛らつな批評の筆を振るった。その頃の
多忙さは、劇場から劇場へ移動する辻馬車を待つ間に、ガス灯の下で原稿をし
たためたとの逸話がある。手紙好きでも有名で、残された書簡は100万通とも
言われている。これほどに多産なショーの文章を読んでいると、自分の発信量
などはたかが知れているが、人間生きている間は何かやらねばならないという
気になってくる。文学とは、作家の生きざまを言葉に残したものだが、私は、
ショーの作品を読むことで、彼のエネルギーを少しずつ分けてもらっているよ
うだ。
 教育と研究、私の場合両立はしていない。おそらく週のうち何日かは演劇の
ことを全く考えない日もあるだろう。けれども、少しでも専門の本を読み、論
文を書く時間が見つかれば、それを最大限に利用したい。私の一番の読書時間
は、帰りの電車での約1時間、ただそれもしばしば睡魔との負けになるのだが…。




      私の研究活動と高専の教育

                     東京工業高専  岩崎 健

 「工学系の学校に於いてはあなたのような、文学を研究している教師が是非
必要なんだ」、東京高専のその当時の英語科の主任だった先生のこんな言葉に
誘われ、私は本校で働くことを決意した。この先生の言葉は私にはよく理解で
きた。というのは、私は高校では農業を学んでいた。農業を営む上で最も大切
なことは、いかによい土を作るか、ということである。よい土を作ることの最
も基本的なことは、土を酸性土壌にしない、ということである。土は放ってお
くとすぐに酸化する。だから絶えずアルカリで中和しなければならない。同様
に、工学系の学生も放っておくとすぐに酸化する。学んでいること自体が酸性
要素的なものだから当然である。ここに私の存在価値がある。私は学生の酸性
化を中和させる役目を任せられたのである。文学は極めてアルカリ性の強いも
のであろうから。
 というわけで、赴任当初は文学作品を教材に選んだ。ホーソン、マーク・ト
ウェイン、キャザー、ヘミングウェイ、スタインベック等々。しかし私の気負
いとは裏腹に、学生は文学には余り興味を示さなかった。でも私は自分の役割
を決して忘れることはなかった。文学作品を読むことに挫折すると、次には映
画を授業に取り入れた。洋画のシナリオをタイプし、字幕なしの映画を観るこ
とにしたのである。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「サウンド・オブ・
ミュージック」「逃亡者」「理由なき反抗」「ゴースト」など、現在まで16,
7本の映画を観ている。学生は映画にはかなりの興味を示している。しかし英
語の力がついているかどうかは定かではない。ここ2,3年、本校でも「トー
イック・イングリッシュ」なるものがかまびすしく叫ばれている。このような
ものに対して私はどのように対処するか、現在は模索中である。何しろ私の役
割は、学生の酸性化を中和させることにある、と認識しているので。
 さて本題の「私の研究活動と高専の教育」に入っていく。高専での役割を私
は以上のように認識し、その線に沿ってやってきているので、研究活動と教育
との間にそれほど大きなギャップを感じてはいない。それに、本校に赴任以来、
非常勤先の大学で「米文学特講」の授業を担当していて、日々の研究過程はそ
こで発表し、それをまとめたものは本校の『研究報告書』等に論文として掲載
しているので、これまた研究と教育の間に大きなギャップを感じてはいない。




     青い鳥は高専にいたようだ

                  和歌山大学    江利川 春雄

 小山高専を卒業し、鈴鹿高専で5年半教員をし、和歌山大学で英語教員養成に
従事して6年が経った。研究環境という視点で、高専の教員時代をふり返ってみ
た。その実感は、「隣の芝生は青かった!」
 隣の奥さんもキレイに見えたんだけど、一緒にお茶したら、○×△@だった
(向こうから見た僕も○×△@のはずだから、同じか)。世間にはよくある話。
高専からみた大学(今の職場)は、まさにこんな実感。すっごく憧れたんだけ
どなあ。実際は、アホほど忙しい。
 第1に、アホほど会議が多い。そして長い。高専の教官会議は文部官僚のエ
ライさんが仕切る上意下達で、実に早かった。当時は「非民主的だ」と反発し
たが、今の職場の「民主的な」会議は長いのなんの。先日は法人化後の予算配
分をめぐるバトルで、朝の10:30から夜の8:30まで。コップの中の嵐が延々
と続き、みな力尽きて閉会。僕は分厚い単行本を久しぶりに読了できた。
 第2に、授業の負担がヘビー。高専のときは、あまり準備をしないでもいけ
た(もう時効!)。その分をちゃっかり研究に振り向けた。ところがいま、一
般英語に学部の専門科目に大学院の授業準備に卒論・修論指導に入試作成。そ
れに公開講座に放送大学に集中講義に高校への出前授業(何で出前なんだよ)。
授業準備は高専時代の何倍だろう。青春を返せ!
 第3に、やたら役職が増えた。学会こそ研究の場のはずなのに、やれ副会長
を、運営委員を、理事をと来る。もっとも「理事」は「冬のソナタ」のヨン様
の肩書きだからカッコいいけど。各種委員長、何たら専門委員。おまけに労働
組合の委員長がまわってきた。「万国の労働者団結せよ!」
 とまあ、愚痴を言っても始まらない。法人化で、お互いにますます雑用が増
え、予算が削られ、労働条件がきつくなっている。ついつい、隣の芝生は青く
見えるけど、行ってみると、どうってことない。どこにも矛盾と理不尽があり、
unbelievable!な人がいる。
 アインシュタインは特許局に務めながら、相対性理論を確立したという。脱
出を夢みてハングリー精神で論文に打ち込んだあの頃が、僕もいちばん研究に
熱中できた気がする。
 巣穴が小さければ広げればいい。今いる場所を住みやすくする。その努力も
しないで、幸せの青い鳥を捜しても、そんな鳥はどこにもいないんだろうな。



      まず隗より始めよ
 
                    椙山女学園大学 長澤唯史

 毎年大学での英語の授業のために、テキストを選ぶ時期になると頭が痛くな
る。どうして大学の教養英語のテキストというのは、おもしろいものが少ない
のだろう。私が学生だったら、いくらやさしい英語で書いてあっても、ありき
たりで浅薄な日米の比較文化論や時事問題の解説など読みたくもない。
 そもそもわが身を振り返れば学生時代、英語を読むこと自体は好きでもなん
でもなかった。たまたま好きな作家の中に英米の作家がいて、翻訳されていな
い作品を読みたいがために英文科に入っただけで、日本語で読めればその方が
楽、という程度のお気楽学生だった。だから今でも、英語を読みたくないとい
う学生の気持ちはよく分かる。だからと言ってそういう学生に、読まなくてい
いよとは口が裂けても言わないが。
 そう、私にとって問題は、読む(もしくは聞く・見る)に値する内容かどう
か、ほぼその一点に尽きる。これは私の場合、教育と研究に共通する基準のよ
うだ。だからテキスト選びでも、自分が読んでおもしろいと感じないものは絶
対に採用したくない。たまたまそれが共通教材だったりしたら、あれこれ文句
をつけて翌年からは別のテキストに代えてもらうよう画策する。リーディング
に限らずLLや語彙・語法、メディア英語といった科目でも同じこと。とにかく
内容のおもしろさに絶対のプライオリティを置く。
 もっとも、自分がおもしろいと思ったものと学生の興味が、必ずしも一致し
ないかもしれない。ただ一ついえるのは、学生がおもしろがるだろうと思って、
お手軽な内容のテキストを選んだりすると痛いしっぺ返しを喰う、ということ
だ。お互いに興味のない内容を一年間読み続けるのは拷問に等しい。それにい
くら最近の学生でも、大学の授業にまでテレビのバラエティ番組の内容は期待
していない。テーマや題材は身近でも、それを学問的視点から扱ったようなも
のが意外と評判がよかったりする。
 以下はここ数年、リーディングの授業などで私が選んだテキストだ。映画批
評家ドナルド・リッチーの論文集、イギリスで出版された映画史の抜粋、80年
代までのロック音楽史、20世紀の歴史を10年ごとにまとめたもの、ポップ・カ
ルチャーの諸現象を取り上げたもの、タスクを通じて読解スキルの習得を図る
教科書など。どれも私の教えている学生のレベルでは、そう簡単に読める英語
ではない。だが学生の授業アンケートを見ると、私の使っているテキストは比
較的難しいけれど内容に興味がもてる、読んでいてつまらなくはなかった、と
いうのが大まかな評価だ(もちろんこれはテキストの内容に限った話で、授業
そのものの評価とは別だが)。
 じつは先のテキストの中に、高専時代から継続して使っているものもあった
りする。というより、高専時代に、英語にとことん興味のない学生に何を読ま
せるか、試行錯誤しているうちに私なりの結論に到達した、というべきか。た
とえば教材に音楽を使うというのは、概して学生の受けがよい。だからといって
ポップスの歌詞を持ってきてそれを読んだり訳させたり歌ったり、というのは
(学生も教員も)飽きるのが早い。それよりはふだん学生が身近に感じている
ポピュラー音楽や作品についての英文を読む。そしてそこにアフロ・アメリカン
音楽が必ず出てくるから(出てこなかったらその教科書はろくなものではない)、
すかさず歴史的・社会的背景として人種問題を解説に加える。すると学生は、
教員が熱心に解説する姿を見て、意外と興味を持ってくれたりする。中には自
分でも聞いてみたいといってCDを借りに来て、そのうちアメリカの人種問題に
も興味を持って本を読むようになる学生もいる。以上は実際、私の高専時代に
あった経験だ。
 こういう方法がそのまま使えるのは、ごく限られた授業だ、という声はあって
当然だ。だが私が豊田高専で担当していた授業も、リーディングと文法・作文
がほぼ半々であった。たしかに文法や作文はそれ専用の教科書を使っていたが、
やはりこういうものは、英語そのものに興味のない学生には向いていないよう
に思われる。リーディングの中で文法も教えた方が、その文法がどのように具
体的な場所で使われているのか、実例を見ながら納得できるという利点がある。
そもそもコンテクストから遊離した文法知識というのは役に立たない、という
のが自分の経験から学んだ持論でもある。だから文法のテキストの選択の際も、
できるだけ読む部分の多いもの、その読む内容が学生の興味を惹きそうなもの、
これを主眼とした。その結果学生の英語力が飛躍的に伸びたかどうかは定かで
はないが、少なくとも学生は意欲だけは持って取り組んでくれていた(と思う)。
実際、今の英語教師にとってこれ以上ありがたいことはないだろう。
 もともと文学好きの私が、読むことの楽しさを学生に伝えたくて、これまで
述べたような方針で、英語の授業に臨んできた。するといつの間にか、最近の
自分の論文や発表も映画、音楽、大衆小説・文化といった、テキスト絡みのも
のが増えている。つい最近も、この秋のシンポジウムでビートルズについて
喋ってくれという依頼が来たばかりだ。ちょうど授業でビートルズを読んでい
た矢先だったのは、単なる偶然だろうが。
 もちろん先にも書いたように、教師も学生も人間であるかぎり、趣味・興味・
好みは千差万別。自分がおもしろいと思ったことを必ず相手も興味を持ってく
れるとは限らない、というのはこの世の真理であろう。だが教師が本当におも
しろいと思っていなければ、学生もそれを敏感に察知する。そうしたら興味を
持たせるのは無理な話だ。まずは教師自身が楽しめるテキストなり教材なり内
容なりを探すこと。そしてそのおもしろさを何とか伝えようという気合を込め
て授業に望むこと。時には意欲のみ空回りして最後は自爆、ということもある
やも知れぬが、それは翌年のための反省材料とすること。これが私の、高専で
の経験から得た教訓である。


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「長野高専英語科スタッフ」  長野工業高専 小澤志朗
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長野市内とは聞こえがいいのですが、ご多分に漏れず田舎にあります。昔は
田圃とリンゴ畑に囲まれ、寮生がリンゴをちょっと頂いて注意を受けたことも
あります。ところが最近は農地整理や宅地開発、道路開通で様変わりしつつあ
ります。「すべて変わらぬものはなし」の世の中ということでしょうか。その
中で、「変わらず学生に暖かいまなざしを注いでいこう」というのが長野高専
の英語スタッフです。(かっこつけすぎでしょうか)

さて、長野高専には常勤が5名、日本人非常勤4名、外国人非常勤4名がいます。
最近教育課程が変わって1年生から6,6,4,2,2(単位)が必修単位数で、3・4年
生同時選択科目として2単位、5年生の選択科目として2単位(外国人担当で3
コース開設)あり、5年間に最高24単位取ることが可能です。

中村護光先生は、アメリカの公教育の研究がご専門です。現在進行中の政治
家主導の日本の教育改革はアメリカなどの動きをかなり参考にしたものとのお
話。先生の数々の鋭いご指摘にうなずくばかりの毎日です。長野県教委などで
の豊富なご経験から、どのような場面でも学生・教職員の皆から頼りにされる
存在です。図書館長、2学年の学年主任もされており、英語科ばかりでなく長
野高専の精神的柱とも言えましょう。

吉野康子先生は、英語教育の多読指導がご専門で、オックスフォード大学出
版のグレイディッドリーダーシリーズなどを使って指導をされています。数少
ない(全体で2名の)女性教官として女子学生だけでなく、男子学生もひきつ
ける魅力溢れる存在です。最近は国際交流の機運を高めるべく学生に働きかけ
ていらっしゃいます。テニスがお上手ですので、我と思わん方はご連絡をすれ
ば長野のナイター設備付きコートでお相手をしていただけるんじゃないでしょう
か。(と、勝手に書いています)

冨永和元先生は、ご専門は米文学。ヘンリー・ソローの研究者の集まりでも
数々の仕事をこなされているようです。「わげん」と読むお名前からも想像
される(でしょうか)ように、僧侶の資格も持たれ、実際にお経を上げたり
することもあると聞いています。日本語、英語、梵語というマルチリンガル
な存在です。また、空手の有段者でもあります。しかし、近寄りがたい存在
ではなく、英語を含めた一般教科の中でも若手でもあり、大勢の学生が研究
室を訪ねているようです。今は学生主事補をされていて、毎日お忙しく飛び
回っています。

高桑潤先生は、この4月から長野高専にお勤めの先生で、その前は高等学校
の先生を数年された後、一念発起して大学院に再入学され兵庫教育大学大学
院を修了された経歴の持ち主です。ご専門は英語教育、特に文法教育を研究
されています。高等学校在籍時代には、野球部の顧問をされ、アンパイヤを
されたこともあると聞いております。ご本人の話では「ヒヤヒヤものでした」
とのことです。

最後に小澤ですが、英語科のまとめ役ということで、フウフウ言いながら
やっております。専門は英語教育。高専生のための工業英語教育を研究して
います。と、言いましても中高一貫で理系科目を避けてきた人間ですので大
きなことは言えません。情けないですが理科を再学習中ですね。高専独法化
後の中期目標とか、JABEEの関係で英語に対する注目度、というよりも要求
度がますます高まるのを感じつつ、日々をなんとか過ごしているというのが
正直なところ。どうなりますやら。

と、こんな長野高専の英語科ですが、いつも外側からああだこうだと言われ
るだけじゃおもしろくない、こちらから仕掛けてやろうという気持ちは持って
いるつもりです。

皆さん、お忙しいと思いますが体にだけは気をつけてまいりましょう。

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連絡事項

平成16年度のコセット研究大会は、平成16年8月21日(土)、22日(日)に、
東京都渋谷区代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで、開催され
ます。
詳しくはコセットHPの、
http://www.gifu-nct.ac.jp/jinbun/cocet/yokou2004/nittei.htm をご覧
下さい。

          (今回の編集担当は、森岡隆[和歌山高専]でした。)
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